エピソード


元の木阿弥

★寝ていて多額の謝礼をもらった琵琶法師

順慶公の父順昭公が死去された時、順昭公の遺言により喪を秘し、声顔かたちの似た奈良の盲人琵琶法師木阿弥を替え玉にして寝所に入れて世間の目を欺いた。1年後順昭公の死を公表木阿弥は多額の恩賞を拝領して奈良に帰り、元の木阿弥に戻ったとのことから出た俗説の語源。


洞ヶ峠

★語り伝えられてきた俗説

山崎の合戦の前に洞ヶ峠に立ったのは明智光秀。彼は腰の重い筒井勢の参陣を強く求め待ったが、順慶公は重臣との慎重な協議を重ねている間に、羽柴軍により明智光秀は敗退した。この時、光秀の姻、細川忠興も動かなかった。後世順慶公が洞ヶ峠に出陣しながら形勢を傍観したと伝えられ、日和見主義者の代名詞にされてしまったことは残念である。
 洞ヶ峠は大阪府枚方市と京都府八幡市との境界、国道1号線が麓を通る。


李朝初期の井戸形茶碗

★割れて名物となった茶碗

重要文化財。李朝初期の井戸形茶碗。辰市城の井戸氏から贈られ、愛蔵されていたが、秀吉の山崎天王山城完工を祝う茶会に際してこれを献上。秀吉もそれを愛蔵していたが、ある時近習がとり落とし5つに割ってしまった。
 この時細川幽斎が直ちに「筒井筒 5つに割れし井戸茶碗咎をば我に負いにけらしな」と伊勢物語の古歌「筒井筒、筒井にかけし・・」をもじった狂歌を詠んで秀吉の機嫌をとりなしたという逸話つきの名物品。


筒井順慶法印座像(身売りされたが、戻った文化財)

元寿福院(順慶公菩提寺)にあったもの。座高約70p・江戸時代初期の作。像は後にいつか外部に流出。往年の大阪順慶町(町名変更で消失)にあったものを筒井町の有志により買い戻し、現在は保存会蔵とし、光専寺に寄託。毎年法要を行う。郡山市文化財指定。厨子は文化9年(1812)2月の作。因みに唐招提寺には画像が残されている。


本門寺〈前身は壽福院〉

★当時「御廟所」と呼ばれた筒井順慶公の菩提寺

現本門寺は本門法華宗であるが、明治16年に取得〈当時は日蓮宗八品派〉。現在の建物は江戸時代建築。軒瓦に「寿福禅院」の名が残っている。寿福院は天正13年建立された。小堀遠州作庭、その南側に茶室「洗心亭」がある。また、明治5年には寺子屋として筒井学区の小学「正己舎」があり現在の筒井小学校の前身となる。