筒井といえば順慶、順慶といえば筒井、英潔を生んだ歴史の郷。南都奈良と西の京、斑鳩の諸大寺を結ぶ中間地点。しかも佐保川の船運にも恵まれた交通と物流の要衛とし、中世には「市」として栄えた。
また室町時代より戦国時代にかけて名をなした興福寺の代官、筒井氏の本貫の地である。地名のおこりも筒井氏との関連からであろう。
城跡寺垣内に鎮座する郷社菅田比売神社は「延喜式」神名帳に見られるとのことから集落の発生は相当古いものと考えられる。他方一辺約500Mに囲まれた城域内に寺院が五カ所もあることからこの地の経済力が推量できよう。筒井氏は大和統一まで二度この地を手放し、戦火が及んだことがある。
順慶公治世の後期に至って居城を郡山に移すこととなり、この地の商家や諸職も移住させられた。このためこの地は急速に衰える。現在では遺構としては僅かに堀跡や地形等で当時を偲ぶにすぎない、一見平凡な風景の中に乱世の筒井氏や民衆の歴史が秘めらている。この地の商家や諸職も移住させられた。このためこの地は急速に衰える。現在でとしては僅かに堀跡や地形等で当時を偲ぶにすぎない、一見平凡な風景の中に乱世の筒井氏や民歴史が秘めらている。
中世末大和最大の平城
環状踏査や他資料から地域はほぼ図示の通りで、地形は平坦、東外堀から佐保川にかけては3M程低く、昔は湿地、遊水地帯。外堀の総延長は約210M、堀幅は内堀約10M、多聞城から運び込まれたという石材などは郡山築城に持ち出され、今は何も残っていない。記録によれば城郭の構築は順慶公五代の祖順永公時代永享2年(1430)。しかし近世的居館は父順昭、順慶公の時とされる。西の外堀は吉野街道より外に造り、市場を包んでいた(北市場)。
★居館跡はシロ、外堀との間は垣内の名が残る。他年一部で発掘調査が行われ、多数の柱穴や土器、井戸跡が検出された。現在堀の一部は蓮池となって残っている。支城は番条、稗田、檪本等であった。